イタリア旅行紀・・・3
2003年10月15日(水曜日・雨)
ナポリ市内観光
水中翼船でカプリ島
ポンペイの遺跡
カプリ島
イタリア南部、ナポリ湾にある島
ナポリの南約30kmに位置si,風光明媚であり、
ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごしたことでも知られる。
レモンが特産物で、別名「レモン島」とも言われる。
当日は見事に雨、「青の洞窟」は幻となりカプリ島を歩くことに。
卵城
なんともチャーミングなネーミングですが、
世界三大美港の一つであるサンタ・ルチア港の最南端にある城塞で、
12世紀にノルマン王によって築かれた時、基礎部分に卵を埋め込み、
「この卵が割れるとき城もナポリも滅ぶ」と呪文をかけられたという伝説から
卵城と呼ばれるようになった、ということです。
展望台からの海の眺めはすばらしい。
「ウンベルト一世広場」
このお店、後日カメラのレンズのパンフレットの被写体になっていたことに気付きました。
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ポンペイ
ポンペイはイタリア半島の南の方にあり
「サンタルチア」で有名なナポリという町の近くにあります。
紀元前800年頃(日本では縄文時代になります)町が作られ、
ポンペイはイタリア北部と南の海を結ぶ中継地点で、貿易で栄えるようになります。
紀元前525年にはギリシアに支配され、紀元前310年に今度はローマに支配された。、
しかし地中海と結ぶ貿易港として農業(ワイン・オリーブ油)、漁業、商業が盛んでしたが、
紀元前62年大地震が起き多くの家々はつぶれてしまう。
しかし復興も早く以前にまして栄えるようになります。(日本では弥生時代に入った頃)
紀元79年8月24日正午過ぎ近くのベスビオ火山が突如火を噴き
天高く燃え上がる火柱巨大な火山灰のキノコ雲たちまち太陽は覆い隠され暗闇となった
(当時の近くの住人プリニオという住人がくわしく書き残してあったそうです)
当時ポンペイの町は東西1km、南北800mで城壁に囲まれた小さな町で、
人口は1万人〜2万人ほど
熱い火山礫が最初降ってきて続いて火山灰が降りかかり、
火砕流が町を襲い町は火山灰の下に埋まってしまう、
このポンペイの家々は紀元79年に火山灰に埋まった後長い間そのままになった。
16世紀建築家ドメニコ・フォンターナが水路を作るために掘っていると
壁画のある建物が現れました。
ポンペイの遺跡だとはわからずにいましたが、宝物が見つかり、所々盗掘されるようになった。
1748年スペイン王となるカルロ王は、宝物を見つけるために最初スペインの軍人に発掘をさせたが
その後1760年から建築家フランチェスコが体系的に発掘を開始し
ポンペイの遺跡の発掘が本格的になりました。
1700年もの間土に埋まっていたわけです。
ベスビオ火山
石畳の両側に歩道があり、それを横切るように、丸い石が、横断歩道として置かれています。
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あちこちにみられる上水の水汲み場
パンやさんの石臼
風呂場
溶岩の熱で、人間の体が蒸発し、人間の型が残ったもの。
そこに石膏を流し込んで、型をとったものです。
何体か展示してありました。動物の型も残っていたそうです。
神殿跡
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バシリカ
バシリカとは「王の列柱廊」を意味するギリシャ語からついた名で、
古代ローマ都市では、フォルムを形成する重要な建造物の一つでした。
バシリカは、ローマ都市には必ずといっても良いほど建てられていた典型的なローマ建築で、
ローマ帝国後もキリスト教会に転用されたり、
教会の建物自体をバシリカ式に作るようにもなりました。
ポンペイのバシリカは、起源が古く、紀元前2世紀半ば頃に建てられたもので、
横幅24m×奥行55mという長方形の巨大な建物でした。
内部は、2列のれんがと大理石製の列柱により、3つの身廊に分かれています。
中心部分には屋根はありませんでしたが、列柱の外側部分、
つまり柱と壁の間には屋根が架けられていました.
公共広場にて、後ろはベスビオ火山
道しるべ
ポンペイの石畳に残されたしるし何を意味するのか?
実は、娼婦の館の方向を示している。
ふふふ・・ 。人々の欲望は、いつの時代も同じ ...
ベット
バール跡も発見!(写真・左)穴の開いているところが釜戸になり、
鍋を入れて、料理を作っていたそうです。
もちろん、横のカウンターで立ちながら一杯です〜。