フランス旅行紀・・・8

(2004年8月8日(日 曜) 晴れ)

 パリ 

 

 

ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。

 行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、

 ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。

 北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって

 一年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市

パリはセーヌ川を境に北側と南側に分かれ,セーヌ川は東から西に向かって流れ、セーヌ川の上が右岸、

 下が左岸と呼ばれています。右岸は高級住宅地が集まって経済の中心となり、左岸は芸術・文化の中心となっている。

パリの歴史は古く、紀元前300年頃にセーヌ川に浮かぶシテ島にケルト人のパリシイ族が定住し、

彼らはこの地域を「水に囲まれた住まい」という意味の「ルテティア」と呼びました。

紀元前52年頃、フランスをガリアと呼んでいたローマ帝国軍が侵攻してきます

ルテティアはガリア総督のユリウス・カエサルによって征服され、

やがて、ルテティアはパリシイ族の名前をとって「パリ」と呼ばれます。

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セーヌ川クルーズの船が見えます。 

 

 

ノートルダム大聖堂

シテ島の中心にはノートルダム大聖堂が建っています。フランスのゴシック建築の傑作と言われている建物です。 

 

 

 

 

ノートルダム大聖堂の正面の広場にはパリの中心を示すプレートがあります。

 道路などの距離を示す標識はここを起点として表示されてる。

 

 

カール大帝の騎馬像

カロリング朝フランク王国の2代目国王カール大帝は、

現在のフランスやドイツをはじめ、ヨーロッパの大部分を支配した。

西暦800年、カール大帝はローマ教皇によって西ローマ帝国の皇帝に選ばれた。

彼の死後、フランク王国は分裂し、やがてフランス王国や神聖ローマ帝国が誕生し、

フランス王国と神聖ローマ帝国はお互いにカール大帝の正当な後継者を主張してヨーロッパの覇権を争った 

ノートルダムは「我らが貴婦人」を意味し 貴婦人は「聖母マリア」

パリ司教のモーリス・ド・シュリーによって1163年に建設がはじまり、約180年後の1345年にようやく完成した 

 

 

「最後の審判の門」

 大聖堂の正面には3つの門があり,

中央は「最後の審判の門」。扉の上部にあるポルタイユに最後の審判の様子が彫られています。

この門を挟んで、向かって右側は「聖アンナの門」、左側は「聖母マリアの門」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

ジャンヌ・ダルク像

大聖堂の中には神に祈りを捧げるジャンヌ・ダルクの像

ジャンヌ・ダルクは、英仏百年戦争真っ只中の1429年に突然歴史の表舞台に登場。

 当時、イギリス軍に追い詰められていたシャルル王太子に謁見して軍勢を与えられると、

 イギリス軍を破ってランスの大聖堂でシャルル7世として戴冠させます。

 しかし、その後はパリの奪回に失敗し、ついにはコンピエーニュの戦いで親イギリス派のブルゴーニュ軍によって囚われの身となり,

 ジャンヌはイギリスに売り渡され、宗教裁判の末に魔女として火刑に処される。

 百年戦争終結後、シャルル7世はジャンヌ・ダルクの名誉回復のための復権裁判を命じ,

 その裁判が行われたのが、このノートルダム大聖堂。

1436年、ジャンヌ・ダルクの無実が証明されます。そして、1920年になってようやく彼女はローマ教会によって聖人に列せられた。

 

 

北のバラ窓

1255年頃につくられた,中央には聖母マリアと幼いキリストが描かれ

周囲には旧約聖書に登場する聖人やユダヤの王たちが描かれている。

北のバラ窓には光を多く取り込むように青いガラスが多く使われている。

南のバラ窓

1260年頃につくられた。中央にはキリストが描かれ、周囲には十二使途が描かれている。 

日当たりの良い南のバラ窓には光をおさえるために赤いガラスが多く使われている。、 

 

 

ひんやり涼しい堂内、凛とした空気にゆらりと揺れるロウソクの炎がとても美しい。 

 

 

 

 

キリストの生涯を描いた彫刻画 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランスの婦人警官さん 何かいいことがあったのか 表情がやわらか〜。 

 

 

 

 

南のバラ窓

 

 

 

 

 

エッフェル塔 

フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博博覧会のために建設され,

建設当初は「パリの景観を汚す鉄の怪物」など散々な非難を浴びましたが、

現在では凱旋門と並んでパリのシンボルになっています。

設計を担当したのは鉄骨技師のギュスターヴ・エッフェル(1832〜1923年)です。

綿密に計算と当時の最新技術が導入され、わずか2年2ヶ月で完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アンヴァリッド

ルイ14世が負傷廃兵の収容施設として建てたもの。金色の部分はドーム教会。現在はナポレオンの墓所として有名

 

 

軍事博物館 

 

 

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 エトワール凱旋門

 想像していたよりも大きいな〜。

 凱旋門周辺は、凱旋門を中心にシャンゼリゼ通りを含む12本の道が、星(エトワール)のように放射状に延びている。

 1805年12月2日、ナポレオン率いるフランス軍はアウステルリッツの戦いで、

 ロシアとオーストリアの連合軍に大勝利をおさめ

 この勝利を祝ってナポレオンは古代ローマ帝国に倣った凱旋門の建設を命じます。

 凱旋門は1836年に完成したが、ナポレオンはすでにセント・へレナ島で亡くなってた。

 1840年12月、ナポレオンの棺はこの凱旋門を通ってアンヴァリッドに運ばれた。

 

 

 凱旋門の周囲はロータリーになっている。横断歩道も無ければ歩道橋もありません。

 どうやって凱旋門まで行くのかとおもうと、

 凱旋門前の道路には地下に行く階段があり、そこを降りると凱旋門の足元に出れるようになっている。

 この通路はかなーり薄暗いのでちょっと怖かった。夜とかは治安的に大丈夫なのかなぁ〜〜。?

 

 

 

 

 

 

 

 

(左)コルトー作「1810年の勝利」ウィーン講和条約を称えるもの。(右)リュード作「1792年の義勇軍の出陣」

 

 

 

スール作「アブキールの戦い」ナポレオンがトルコに勝利した場面 

 

 

 

 

シャンゼリゼ通り 

パリ市内北西部の第8区を凱旋門からコンコルド広場まで横切る約3kmの大通りで、 

マロニエの並木道となっていて通りはともかく広い 

 

 

シャンゼリゼにあるルイ・ヴィトンは現在、店内改装中 

 

 

右は「 マキシム・ド・パリ」しかし左のパラソルとお店の色を当一したお洒落なお店は〜〜?〜〜?思い出せない・・。

 

 

ルイ14世が崩御する5年前の1710年につくられた部屋です。

 1階は一般市民や宮廷の召使が参列する席があり、2階は王室一家の席がありました。

 1770年5月16日、ここで王太子ルイ(後のルイ16世)とオーストリア・ウィーンからやってきた

 ハプスブルク家のマリー・アントワネットの結婚式が行われました.

 

 

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ヴェルサイユ宮殿 

 

ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。

 そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。

  その豪華さと完成度で世界中の宮殿に模倣された。

 ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、

 生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール・エチケット・マナーが生まれた。

 

 

アルム広場 

ここから宮殿まで石畳の上を歩いて行きます。 

 

 

 

 

 

フランス王朝 百合の紋章 と 太陽神アポロン

 

 

 

 

 

 

 

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ルイ14世の騎馬像 

ルイ14世(1638〜1715年)はブルボン王朝最盛期の国王。

 先代ルイ13世の死によってわずか5歳で即位、22歳のときに親政を開始すると、

 コルベールを財務総監に任命して富国強兵に努める。

 やがて、ヨーロッパ最大の兵力を持つようになったルイ14世はヨーロッパ全土を敵に回して戦争を繰り広げ、

 フランドル戦争、オランダ戦争、アウグスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争など一連の戦争によって

 フランスはヨーロッパの覇者となり、ルイ14世は自ら「太陽王」を名乗る。

 

 

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南の花壇 

王妃の宮殿の窓の下につくられています。花壇には「アラベスク模様」が描き出されています。  

 

 

 

 

 

 

 

 

王室礼拝堂 

ルイ14世が崩御する5年前の1710年につくられた部屋です。

1階は一般市民や宮廷の召使が参列する席があり、2階は王室一家の席があった。

 1770年5月16日、ここで王太子ルイ(後のルイ16世)と

 オーストリア・ウィーンからやってきたハプスブルク家のマリー・アントワネットの結婚式が行われた。

 

 

 

 

 

 

ビーナスの間 

ルイ14世の青年像。 

 

 

 

 

ルイ16世 

 

 

 

 

鏡の間 

フィナーレを飾るのは、ルイ14世の居室として有名な鏡の間。

 1919年6月28日、第1次世界大戦の停戦条約であるベルサイユ条約の調印がここで行われたことで知られる。

 長さ75m、幅10m、高さ12mの鏡の間は、マンサールが設計したもので、

 装飾芸術の傑作といわれ、17の窓と、壁面にはめられた17面の鏡から構成される。

 天井画はル・ブランの手によるルイ14世の栄光の生涯を古代風の世界で描いた大壁画である。

  鏡の間は、中央の建物の2階奥にあり、庭園に面している。 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴェルサイユ宮殿の西に広がる庭園 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セーヌ川ディナークルーズ 

少し正装して夜のセーヌ川クルーズに・・♪ 

この日のためにドレスもどき・ストールも買いましたのに、カメラの不調でほとんど写真は撮れていません・・。