2013年台北旅行紀(3)

(2013年10月03日(月曜)・曇り)

何に食あたりしたのか、朝から私は下痢

二日間気をつけていたのに・・・??

持参した、下痢止めと胃腸薬で、今日の予定の「九分」へ

台風の接近で、朝から天気が悪く、雨がぱらつきます。

「九分」は雨とのこと・・。

 MRT西門まで散策

 

 バス通りには 背の高い街路樹が植わっています。

 

 トウダイグサ科の常緑高木。「アカギ」 

 帰宅後検索しますと。

 幹が赤味を帯びていることから沖縄で昔から「赤木」と呼ばれ、 

 それがそのまま和名になった植物です。 

 紫檀の代用にされるそうです。また、樹皮は沖縄ではミンサー織りの染色に使われるほか、  

 くすりや藤(ラタン)で作ったカゴの染色に用いるとあります

 

 茶色い実が たわわにぶら下がっています。

 

 「公衆電話」・「市バス」

 

 

 「レンタルサイクル」

 帰宅後検索しましたら「建大輪胎」とは「KENDA タイヤ」というメーカーで、 

 台北市では レンタルサイクルのサービス「Ubike 微笑單車」が始まり  

 EASYCARD(悠遊カード)とクレジットカードがあれば、旅行中でも自転車で近場移動ができます。 

 台北市政府交通局と自転車メーカーGiantが手を組み進められているプロジェクト「Ubike 微笑單車」。 

 約500台の自転車が用意されており、台北101や國父紀念館などのエリアに約10のステーションがあります。 

 レンタル料金は、1日40元、5日150元とリーズナブル。

 

 

 「中山堂」 

 「中山堂」が建設されたのは1936年、今から76年前の出来事です。 

 中山堂が建設される前、この場所には台湾総統府の庁舎が建っていました。 

 当時は、ここが政治の要であったわけです。その後、日本統治時代に総統府が現在の場所に新築されると、 

 ここには市民集会を目的とした「台北公会堂」が建設されました。 

 それが今の「中山堂」。設計したのは、台湾総督府の営繕課というところに配属されていた井出薫という建築家で、 

 この人の作品は今でも台北各所で見つけることができます。 

 建設から9年後の1945年には歴史が大きく動き、太平洋戦争に敗れた日本が台湾から撤退します。 

 当時、日本人最後の台湾総督となった安藤利吉が降伏文にサインした場所が、 

 この「台北公会堂」でした。日本の撤退後、中華民国政府の所有物となり、 

 「台北市中山堂」と名前を変えてからも重要な役割を担っていました。 

 国民大会と呼ばれる議会のような活動もここで開かれていましたし、迎賓館としても使われていたそうです。 

 ちなみに「中山堂」の「中山」はもちろん孫文のこと。 

 

 

 抗日戰争勝利紀念碑 

 

 オオバナサルスベリ

 画像検索しましたが、違っているかも・・・。

 

 「町並み」

 レトロな建物が、あちこちに残っています。

 

 「二二八和平公園」 

 検索してみました。

 この公園は、日本統治時代に造られ、もとは台北新公園と呼ばれていました。 

 1996年、二二八紀念館が設立され、正式名称が二二八和平公園に改められました。 

 「二二八事件とは、」 

 台湾を支配する国民党が、約40年にわたる戒厳令をしき、 

 台湾人を武力で弾圧するきっかけとなった事件。 

 第二次世界大戦後、蒋介石が率いる国民党が台湾を接収し、 

 中国本土から多くの人間が渡ってきました。 

 本土から渡ってきた「外省人」は、 

 戦前から台湾に住む「本省人」を支配するようになりました。 

 しかし、教育やインフラを整備した日本統治時代とかなり違い、 

 戦後の台湾の経済や生活は悪化し、国民党の支配に対し、 

 本省人は様々な不満を抱くようになりました。 

 1947年、台北でヤミタバコを販売していた本省人の女性に、 

 外省人の警官が暴行を加え、それに抗議した群衆の一人を警官が射殺。 

 これに対し、2月28日に本省人が抗議のデモを行いましたが、憲兵隊がデモ隊に発砲。 

 その後、本省人と外省人の抗争が、台湾全土に広がりましたが、 

 中国本土から来た軍隊に鎮圧され、多くの台湾人が虐殺されたといわれています。 

 

 「二二八紀年碑」 

 二二八事件に対し、追悼の意をこめて建てられた碑。 

 記念碑のパーツは、立方形、球形、円錐形が組み合わされています。 

 立方形は人の秩序、球形は自然の秩序、円錐形は故郷での生活を、表しています。 

 モニュメントの避雷針のような先端の形状は二二八事件の一舞台となった基隆埠頭を、 

 掌の跡は理不尽な目にあった方の受難を、 

 池に浮かぶ黒球は亡くなった方の血の滴を表しています。 

 さらに、地球に見立てた球体の、北回帰線にあたる位置に線を入れ、 

 二二八事件の起きた台湾の象徴としたり、 

 二二八事件を偲んで算盤の珠を228個納めるなど、事件にちなんだ意匠が。 

 また、二二八事件の犠牲になった方のお骨や灰の一部も、甕に入れて納められています。 

 この事件と関係のあるなしにかかわらず、多くの知識人や民間の本省人が連行され、 

 再び帰らぬ人となりました。 

 

 

 禁止事項をよく見ると・・

 まさか・・洗濯する人はいないとおもうんですが・・。

 

 

 まさか・・こんなところに、落花生が・・??

 ここでは花壇の周りや街路樹の下覆いなどに植えられていて 

 茎5pくらい、花は1pたらずの小さなお花です

 

 

検索してみましたら・・有りました〜〜♪。 

 グランドカバー・ピーナッツ/アラキス/ピントイ蔓花生

  マメ科アラキス(ラッカセイ)属の多年生宿根草。 原産地:熱帯アジア

 

 

 

 お腹の調子が悪いので・・

 昼食に「うどん」を注文しましたら・・ミニトマト入りのうどんが登場〜〜!!。

 

 台湾鉄道に乗って、瑞芳駅まで行き、そこからバスで「九分」へ向かう・・

 

 

 14時 40分の列車に乗ります。

 

 

 

 あれぇ〜〜、座席番号が日本と違います。

 進行方向に向かって左の座席が奇数表示で、廊下側(通路側)と道側(窓側)

 

 瑞芳駅に到着、ここからバス。

 

 道を渡った所にあるバス停へ移動し、基隆客運の運行する「九分-金瓜石」行きのバスに乗ります。

 ここから 結構たくさんの観光客が乗るので、バス停は直ぐにみつかりました。

 

 バスで20分程度、かなり急なカーブが続く山道でした。

 

 ガイドブックに載ってる、セブンイレブンが見えます。

 

 バス停前の店には、大きな柿と見たことのない果物も並んでいます。

 

 

 [九分とは。]

 台北から約40km東に位置する、山間の町。 

 昔、この地域にはたった9世帯しかなく、外地から物を買う時、 

 必ず9つ分買っていた事から九分呼ばれるようになったと言われています。 

 この由来からも分かるように、もともとは小さな寒村だった九分すが、 

 19世紀末に金の採掘が始まり、いわゆるゴールドラッシュで町が栄えました。 

 しかし、1971年金鉱は閉山され、町は衰退してしまいます。 

 その後、1989年のベネチア国際映画祭グランプリを受賞した『非情城市』のロケ地となり、 

 一躍脚光を浴びて人気の観光地となりました。 

 日本でも『千と千尋の物語』のモデルとなった町と紹介され、日本からの観光客も増えています。

 

 

 

 

 

 九分は狭い路地や長い階段の両脇に、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。 

 4時頃につきましたが、今にも雨が降りそうでしたが、幸いなことに雨は全く降らず、 

 日が落ちるまでゆっくりと 街の中を散策し

 疲れたら 雰囲気たっぷりの茶坊で 台湾茶を飲んで一休み。 

 情緒溢れる町で、ゆるやかに時間がすぎてゆきます・・。 

 九分は高低差がかなりあるので、上から眺める景色も素晴らしく、 

 そんな景色を眺めながら、のんびりとお茶を飲をいただきました。

 

 

 

 

 観光雑誌にも掲載される、「芋善哉のお店」

 御汁粉のような、芋で作ったお餅が入る善哉ですが

 私にはどうも、口に合いませんでした。

 見晴らしの良い場所で、ゆっくりと芋善哉を頂けますので

 一休みできました。

 

 

 

 

 『千と千尋の物語』のモデルとなった「茶坊」。

 

 

 

 

 

 灯篭にも少しずつ明かりが灯り、雰囲気が出てきました。

 夕暮れにはまだ早いので。

 モデルとなったこの「阿妹茶楼」で休憩

 少々、お高い「茶坊」ですが、御茶菓子も美味しくの長い時間休憩ができ、

 残ったお茶も持ち帰りできました。

 以前 中国の方から頂いた、お道具の使い方が今回やっとわかりました。

 

 

 

 

 

 

 

 石段が続く坂道、「夜の豎崎路」を歩きました。 

  ここは石段沿いにランタンが灯る九分で最も美しい場所です。

 

 

 

 

 帰りの 瑞芳発19時47分発の列車が  かなり遅れていました。

 MRT西門の近くの足裏マッサージ店で足の疲れを・・・。