広島・山口旅行紀2012

(2012年11月18日)

その2

 

昨日の雨は綺麗に上がり、今日は快晴です~♪

今日は、錦帯橋・厳島神社へ

広島も山口も初めての私は、

錦帯橋を住吉神社の太鼓橋が連なったのをイメージ・・

厳島神社の赤い鳥居は、京都の平安神宮の鳥居をイメージし行きましたら・・、

あまりにも違いすぎてビックリです・・!!。

 

 

 まずは、錦帯橋へ・・。

 [錦帯橋]をネット検索しました。

 初代岩国領主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と城下町をつなぐ橋は、

 数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流失していた。

 3代領主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。

 橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、

 橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。

 しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、

 同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。

 広嘉は、明の帰化僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖には、

 島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。

 これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至った。

 アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。

 児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。

 しかし、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまった。

 同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、

 その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。

 なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「

 「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、

 一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。

 とありました。

 

 

 

 錦川の釣り人で橋の手前の人がアユを、素早く沢山釣っていました。

 「場所がいい」のかなぁ~??と思っていましたら・・

 昼食の「平清」のアユを釣る、「プロの釣人の平岡さん」だと知りました。

 

 

 

 

 ネット検索によりますと・・

 現存する絵図面は、2回目の架け替えとなる1699年(元禄12年)のものが最古。

 そのほかにも12枚が残る。これらの架け替え記録から、架け替えのたびに改良が加えられ、

 1796年(寛政8年)の改良で現在の形状が定まったことがわかっている。

 以後210年間、形状や意匠の変更はされていない。

 平成の架け替えの際は、こうした古図をもとに当時の技術の再現をめざすため、

 設計や測量はすべて尺貫法で行われた。釘もステンレス製などは一切使わず、

 手打ちしたたたら鉄の和釘が使われた。

 江戸後期には架け替えに必要な用材を確保するため、

 計画的な植林がされていた記録が残っている。

 現代においても、岩国市は将来にわたって架け替え材の自給をめざす

 「錦帯橋用材備蓄林200年構想」を打ち出して植林活動を実施している

 

 

 橋の側には、なぜかソフトクリーム店が幾つも並んでいる。

 その中に100種類のソフトクリームを売る店が有った。

 納豆や七味・にんにく・トウガラシのソフトもあったが どんなのだったのかなぁ・・??

 

 

  

 

 「平清」

 「平清」は場所がとてもいいので、予約客でいっぱいでしたので諦めて他の店を探しに、

 どこも、予約で満席・・諦め「平清」の方へもどりましたら、

 先ほどの受付さんが「席が開いた」と声を掛けてくれた

 なんと一等席が空いたんですよ・・こんな良い席なので感激~~♪

 どれもとても美味しく、特にレンコンの入った岩国寿司・大平煮が美味しかった。

 岩国のレンコンは腰が有りとてもおいしいです。

 「岩国寿司」

 山口県岩国市周辺で作られる押し寿司の一種。岩国城内で食べられていたこともあり、

 「殿様寿司」とも言われる。地元では「角ずし」と呼ばれることも多いが

 今から約380年前、岩国藩で収穫された米と蓮根に野菜を配し、

近海の魚の身を入れ、保存食にするため味付けを寿司にしたもの

 「郷土料理・大平煮」

  「大平」は山口県東部の郷土料理です。器として直径50cmほどもある大きな平たい椀が使われることから、

 「大きな平たい椀→大平」と呼ばれるようになったといわれています。

 野菜や鶏肉、山菜などをたくさん入れて作る汁気の多い煮物です。

 岩国地方では、「大平」「岩国寿司」「れんこんの酢の物」の三つは

 祝い膳に欠かせない郷土料理といわれています。

 かつてはどこの家でも大平椀があり、20~30人分の大平を作るのは力仕事であったため、

 具材を煮るのは男性の役目であったと伝えられています。

 

 

 厳島神社へ

 なぜ海の上に建てたのか知りたくネット検索しました。

 日本三景、「安芸の宮島」としても知られる厳島は周囲およそ30キロの島で

 古来から、人々はこの島の形を額、鼻、口そしてを横たわる「観音様」に見立て、あがめてきました。

 人々は、厳島を「神の島」と敬い、船の上から祈りを捧げたと言います。

 嚴島神社の境内は、弓状に広がる遠浅の浜・御笠浜にあります。

 干潮時には大鳥居まで歩いていけますが、潮が満ちると社殿や廻廊はあたかも海に浮かんでいるよう。

 このように刻々と潮の干満で姿を変える海を敷地とする奇想天外な発想は世界でも類をみません。

 神社が浜に創建されたのは、島全体がご神体とされ神聖視したためとみられますが、

 12世紀に平清盛と神主・佐伯景弘によって調えられた壮大な社殿群は平安時代の浄土信仰に基づく

 極楽浄土を現したものとも言われます。

 前面には瀬戸内海、背後には神が降臨する場所と考えられた弥山。

 自然に神をみる日本古来の信仰をそのまま形にし、

 みごとに自然美と人工美とを調和させたのが嚴島神社なのです。

 とありました。

 

 厳島神社の鹿は「神の使い」として、大切にされています。

 

 

 この大鳥居は、どのようにして海に建っているのか。

 ネット検索してみました。

 実は大鳥居を支える6本の柱に、目には見えない秘密があります。

 樹齢四百年にも達する主柱。その下には、花こう岩が敷かれています。

 更に、その地下深くに長い物で3メートルに及ぶ松のくいがおよそ百本打たれています。

 同様に6つの柱全てに松のくいがあります。このくいが、大鳥居の基盤を固め、

 傾くのを防いでいるのです。

 もう一つ、屋根の下の部分にも秘密があります。

 実は内部は空洞になっていて、 ここに、お経の書かれた石が納められています。

 総重量は、およそ5トン。この重さが、柱の基礎部分に伝わり、大鳥居は自らの重みで立っているとのこと。

 石にお経とは意外でした・・。

 

 

 厳島神社の紅葉はもう終盤のようでしたが、

 大勢の観光客でにぎわっていました。

 

 帰りのフェリー乗り場には、とても長い列ができていましたが、

 フェリーに全ての人を乗せて出航。