お茶 (2013年)
今春で3年目に入る「お茶」
今年は、手先に気を配り、美しいお手前を目標に
お稽古をしていきたく
週1回でも 家でのお稽古の日を作っていきたい。
04月05日(晴れ)
水無瀬神宮献茶式に行ってきました。
8時半に阪急高槻で教室の方と待ち合わせ・水瀬神社に着くと一番に
献茶式の場所の確保し2席目からスタート。
午前10時、家元は「離宮の水」をもって濃茶三碗を謹点、三柱のご祭神に捧げられました。
今回も本殿で家元の献茶式を拝見できました。
後列からですが、とても優雅な柄杓の扱いを拝見できました。
先生がいつも言われますが、「親指を離さない・・」
なるほど、家元の手の形はとてもうつくしい〜♪。
今回の無地の着物は 祖母のを洗い張り・仕立て直してもらい
新しい帯は 東寺さんの掘り出し物〜♪
何時になく上手く着れたと思っていましたが・・
たれが短すぎ、背筋にたるみが・・まだまだやわぁ。
この組み合わせ、ちょっと気に入っています。
「拝殿」
水瀬神宮を検索してみました。
ここはもと後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった所で、淀川の右岸にあり、
上皇は京の都から船で下られ、たびたびお越しになったことは「増鏡」などの書物にくわしく記されています。
この離宮では管絃の催し、歌の会、狩りや刀剣の鍛作なども行われ
「奥山のおどろが下もふみわけて道のある世ぞと人に知らせむ」 との御歌にみられるように、
早くから上皇は鎌倉幕府執権北条氏の専横を憤り、遂に承久3年(1221年・承久の乱)五月、
討幕の兵を挙げられましたが、関東の大軍に敗れ、その結果、
後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御になり、
遂に都に御帰遷ならず、いづれも遠隔の地で崩御になりました。
後鳥羽上皇は崩御の十四日前に御手掌を押した御置文を、
水無瀬離宮を管していた水無瀬信成、親成父子に下し賜い、
後生を弔うよう仰せ下されましたので、上皇崩御の後、
隠岐へ御出発直前に藤原信実を召して描かしめられた上皇の御影を拝領して、
仁治元年(1240年)離宮の地に御堂を建ててその御菩提を弔ったのが水無瀬御影堂であり、
その後六百年、朝廷や武将の尊崇を受けつつ御慰霊の行事が続けられて来ましたが、
明治六年、神社に御制定、官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、
同時に土御門、順徳両天皇の御霊も共に祀られることになりました。
昭和十四年、後鳥羽天皇七百年式年に当たり官幣大社に昇格、
神宮号を賜りました。戦後は社格が廃されましたが、大阪府においては唯一の神宮であります
「客殿(国指定重要文化財)」
拝殿(はいでん)に向かって左側にあります。建てられた時期は不明ですが、
豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられています。
一時は社務所、または江戸時代には広間や宸殿(しんでん)と呼ばれていました。
桁行六間、梁間五間の入母屋造(いりおもや)、桟瓦(さんがわら)。
全体の形式手法は書院形式で、規模、形式ともに標準的で比較的簡素な造りになってます。
「石川五右衛門の手形」
文禄年間の大盗石川五右衛門が当神宮神宝の大刀を盗まんと
数日間忍びうかがいしも神威にうたれ足一歩も門内に入れず、
この門柱に手形を残し立ち去ったと伝えられている。
「水無瀬駒発祥地碑」
「水無瀬駒」とは、水無瀬神宮の宮司を務める水無瀬家で作られた将棋駒のことです。
島本町では、水無瀬神宮に約400年間伝わる水無瀬駒があります。
この「水無瀬駒」は安土桃山時代の公家で能筆であった「水無瀬兼成(みなせかねなり)」が駒の銘を書き、
89歳で亡くなるまでに700組以上もの将棋駒を制作しています。
譲渡先には後陽成天皇(ごようぜいてんのう)、関白 豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、
室町幕府15代将軍 足利義昭(あしかがよしあき)など、公家、大名、高名な武将が挙げられ、
徳川家康(とくがわいえやす)には53組もの駒が納められました。
将棋駒の先が細く薄く、手前が肉厚幅広な形は兼成が確立させ、
以後、高級な駒の形はこれに倣っています。
また、江戸時代には、「将棋駒の銘は水無瀬家の筆を以って宝とす。
この筆跡の駒、免許なきもの弄すべからず」とまで言われました。
「離宮の水」
千利休も好んで使ったとされる 境内にあるこの井戸水は、
淀川の支流、天王山を源とし、降雨後のみ表流水が流れる川となる
水無瀬川の 伏流水(ふくりゅうすい)で、
(確かに長岡京から阪急電車で大阪へ通勤している時に、
車窓から見える水瀬川は 雨上がりには 水の流れ有り、
それ以外には 水が無い石だけ敷きつめた 水のない川でした。)
昭和60年、大阪府下(おおさかふか)で唯一 環境庁認定の「全国名水百選」に選ばれた。
茶室「燈心亭」 (国指定重要文化財)
後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院。
桁行7.6m、梁間5.2m、一重、寄棟造、茅葺、東面庇付、こけら葺。
内部は三畳台目の席と、同面積の勝手とを並べた構成になっている。
松、竹、梅をはじめとする様々な材種を用いた繊細な意匠が随所に見られ、
江戸初期における貴族(公家)好みの代表的な茶室として知られ、
にじり口がなく、外に開放された造りを持つ、全国でも大変めずらしい茶室です。
本席(茶室)の格天井に山吹(やまぶき)、トクサ、ヨシ、萩など十種余りの「灯心の材料とされた草木」を
用いていることからの名称です。昭和初期以前は「七草の席」とよばれました。
3回目にして、やっと水瀬神宮を少し知ることができました。
画像は多方面よりお借りしています。